フジコヘミング|聴力を失ってもピアノに向かい続けた女性

フジコ ヘミング
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出典

どんなに辛くても、チャンスを失っても、
ピアノに向かい続けた一人の女性がいました。

フジコ・ヘミング。

彼女の軌跡を描いたドキュメントがNHKで放送され、
大きな反響を呼びました。

そして彼女のデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は
クラシック界では異例の200万枚以上の売上を記録したのです。

彼女の著作『希望の力 くじけない、あきらめない心』より
その壮絶な軌跡をご紹介します。


フジコヘミング

 

父親はスウェーデン人の画家、

母親は日本人のピアニストの卵。

彼らの間にフジコは生まれた。

フジコの母親はピアノの家庭教師をしていた。

そのため小さい頃から母親が弾くショパンを聴きながら眠ったという。

そんな彼女がピアノを習い始めたのは4歳。

しかし面白いと感じることはなく、

いやいやピアノを弾いていた。

教えていた母親が厳しかったのも理由としてあったかもしれない。

レッスンは1回2時間、

それが2、3回も繰り返される。

フジコが間違えるとコテンパンに怒鳴られる。

そんな日々だった。

でも、彼女はグッと歯を食いしばってそれを乗り越えた。

するといつのまにかピアノは面白いと感じるようになっていたという。

そしてフジコが高校生になった頃も変わらずピアノ漬けの毎日。

 
「人生には、いつどんなことが起きるかわからない。
お前はピアノ以外、何ができる?
ピアノだけがお前のとりえなんだから、しっかりしなさい。」

 
母親からの言葉を今でも覚えているという。


フジコヘミングの壮絶な日々の始まり

 

そんなフジコの努力のかいがあり、
17歳で銀座のヤマハホールで初めてのリサイタルを開くことになった。

 
娘心に、つらくても努力して頑張れば、
必ずその先にはいいことが待っているんだって思ったわ。

 
高校を卒業後、東京芸術大学に入学し、さらにピアノの勉強を始める。
コンクールに入賞し、また数々の賞を受賞した後、
多くの人の助けがあったおかげで
念願だった、ドイツのベルリンへピアノ留学を果たす。

フジコヘミングが29歳の時。

しかし待っていたのは長く苦しい生活のはじまりだった。

その大学では日本人も多くいたが皆裕福な環境で、
「難民」という特別な待遇だったフジコは
胸をときめかせるような素晴らしい出会いがない状態のまま次第に孤立していく。
 

 
日本では「異人」といじめられ、
生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、
日本人の留学生からは「よそ者」とされて
仲間に入れてもらえない・・・。

「どうして?私の故郷はどこ?」
抱いていた夢が消えそうだった。

 
フジコはそう不遇の時をそう告白している。

そんな環境でも彼女は夢をあきらめないで大学を卒業し、
ドイツの隣の国、オーストリアの首都ウィーンへ移る。

多くの素晴らしい音楽家と出会い、
希望に満ちていたが、

ただお金が無かった。

パスポートがなく仕事もない。
頼りは母親からのわずかな仕送り。

毎日、ジャガイモとにんじんにカレー粉を入れたスープ、
食べるものが無くなると、
一週間砂糖水だけで過ごした日もあったという。


壮絶な日々から抜け出せるチャンス

 

ある日、辛く貧しい日々を過ごしていたフジコにチャンスがくる。

世界的な音楽家パーンスタインの演奏会が開かれることを知ったフジコは
なけなしのお金でチケットを買い、
そしてバーンスタインへ自分の写真と手紙を送った。

自分の道は自分で切り拓くしかない、そう思ったからだ。

演奏会後、バーンスタインの楽屋を訪ねたフジコ。

彼はフジコの手紙を読んでくれていて、
その場で「ピアノを弾きなさい」と言ってくれた。

 
私は無我夢中でリストの「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」を弾いた。
すると、聴き終わったバーンスタインが私を抱き寄せ、
キスしてくれたのよ。

神様が微笑んだ。

 
そしてウィーンの街角にフジコのリサイタルのポスターが貼られた。

 
とうとう夢が叶う。
苦しくても前を見つめて頑張ってきたからだ。

 
どんなことも、あきらめなければ
必ず道は開けてくる。
そう思った。

 


フジコヘミングの本当の壮絶な日々

 

リサイタルの1週間前、
暖房もない寒い部屋で暮らしていたフジコは風邪をひいてしまった。

それが原因で子供の頃にかかった中耳炎が再発してしまう。
慌てて大学病院に駆け込んだが、
お金も健康保険もなかった。

 

フジコは聴力を失ってしまった。

 

その後、耳が聴こえないままリサイタルを行ったが
結果はメチャメチャ。

翌日のリサイタルを全てキャンセルしたという。
 

せっかく掴んだ最高のチャンスを逃してしまい、
毎日、泣いて過ごした。
悪魔のせいだ、もう終わりだと思った。




しかしフジコはピアノを弾き続けた。
一度ウィーンを離れたが、再びドイツに戻り
耳の治療をしながら、
ピアノ教師の資格をとる。

教師として働きながらコンサートを続けて暮らしていた。

そして母親の不幸があったため、
日本へ帰国。

フジコは日本で母校でのコンサートを行なうなど活動を続けていた。

そんな彼女の壮絶な人生を描いたドキュメンが放送され、
デビューCDが爆発的にヒットするなど、
フジコの名前は多くの人に知られるようになった。

放送後の東京オペラシティでの復活リサイタル後、
本格的に音楽活動を再開する。

有名なオーケストラと協奏、
また2009年の日本ツアーでは5万人を動員するなど
現在でも彼女は国内外で幅広い活躍を続けている。
 

 
私の人生はこの風邪のせいで狂ってしまった。
あのリサイタルが成功していればと思う。

誰にも不幸はあり、全部いいことばかりの人はいない。
だから大事なことは、失敗や不幸に負けず、
どう乗り越えていくかね。

私の場合は、
ただ正直にピアノを弾き続けてきた。

 

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